加賀騒動のスキャンダル
吉徳逝去の後、子の前田宗辰が第7代藩主となるが、わずか1年半で宗辰も亡くなり、異母弟の前田重煕が藩主の座を継ぐ。寛延元年(1748年) 藩主重熙と前の藩主宗辰の生母で現藩主重熙の養育も務める浄珠院の毒殺未遂事件が発覚する。捜査の結果、吉徳の娘 楊姫付きの女中であった中臈浅尾の犯行と判明。さらに取り調べの結果、主犯は吉徳の側室真如院であることが判明した。実子前田利和を藩主につけることを狙った暗殺未遂であった。これを承けて真如院の居室を捜索したところ大槻伝蔵からの手紙が見つかり、不義密通の証拠として取り上げられるにいたり一大スキャンダルとなる。こうした詮議が進む中、寛延元年(1748年)9月12日 大槻伝蔵は五箇山の配所で自害した。浅尾は死罪、真如院と利和は閉門となった。大槻一派に対する粛正は宝暦4年(1754年)まで続いた。
講談「加賀騒動」
加賀騒動の顛末は、幕府の介入がなく守旧派が勝利したため客観的事実を示す証拠が乏しい。真相は闇のまま、そのスキャンダラスな表層が強調されて、事件は講談に仕立てられ流布してゆく。講談によれば、利和は大槻伝蔵と真如院との密通により生まれた子であり、伝蔵は主家簒奪を企図して吉徳、宗辰と藩主を二代にわたって殺害した後さらに重熙と浄珠院をも殺害しようとしたところで事件が発覚したもので、これを阻止して百万石を救った忠臣として前田直躬を描いている。また浅尾に対する刑の執行は数百匹の毒蛇を入れた穴蔵に裸にして押し込めたとされ、ショッキングでグロテスクな内容の物語となっている。
しかし事実は、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠もなければ、真如院の居室で見つかったとされる大槻伝蔵の手紙の内容もわかっていない。毒殺未遂事件当時、大槻伝蔵はすでに五箇山に流されて厳しい監視下にあって毒殺の指示は不可能である。吉徳殺害に至っては、最大の庇護者を失った後のシナリオが伝蔵に読めないはずはなく、あり得ない話である。現在では、吉徳、吉辰の死に事件性はなく、重熙・浄珠院毒殺未遂事件は守旧派の中心人物であった前田直躬による大槻派一掃のための狂言犯罪であったと考えられている。
なお、旧石川県庁前に大槻伝蔵の屋敷から移植したと言われるシイの巨木があり「堂形のシイ」と呼ばれているが、この木を伐ろうとするとタタリがあると言い習わされている。
加賀藩(前田氏)は百万石以上の外様の大大名であり、そのため江戸幕府はその力を削ぐことに力を注いできた。その一つが目付役としての本多家の存在であった。藩主は背後に幕府の威光を背負った本多家の意向を尊重せざるを得ず、藩の運営は本多家をはじめとする年寄衆を含む重臣会議で決定されることになっていた。第5代藩主となった前田綱紀は藩主独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。
一方、加賀藩の財政は元禄期以降、百万石の家格を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化する一方であった。
藩政改革
享保8年(1723年)綱紀が隠居し、その子の吉徳が藩主の座に着く。吉徳はより強固な藩主独裁をめざして側近として足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を抜擢する。吉徳・大槻コンビは藩主独裁体制を目指す一方で藩の財政改革にも着手する。大槻は、米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。また倹約を徹底させるためにスパイを使ったとも言われる。これらにより財政の悪化は止まったものの回復には至らなかった。悪化を食い止めたことをよしとした吉徳が大槻を厚遇したのに対し、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募っていた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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